moji:
via yajifun貼交帳
国立国会図書館のデジタル化資料 - 石巻日日新聞(号外). 平成23年3月12日
asahi.com(朝日新聞社):震災時の壁新聞をネット配信 国会図書館 - 社会
壁新聞の現物って日本に残ったのかな。アメリカの博物館に寄贈されるというニュースもあったけど。
命しかない。けれど、命がある。これが希望である。この震災で多く尊い命を失ったがここにある命はそして経験は脈々と受け継がれ大河となるだろう。希望を絶やしてはいけない。
世間では各方面で自粛ムードが漂うが、私は元気な者は元気に過ごすことが今出来ることなのではないかと思う。野球、サッカー、大いにいいではないか。さくら祭りいいではないか。こんなときだからこそ、楽しさがなければいけない。楽しさは生きる喜びであり、希望に繋がる、と快楽主義者の私は思うのである。生きていることを実感し、共に同じひとときを分かち合うことが出来る喜びを味わおうではないかと思う。
下を向いているばかりでは何も始まらない。
—「後追いはしない」のは昔からですか?
都築 僕は「POPEYE」に5年間、「BRUTUS」に5年間携わりましたが、編集会議って1回もありませんでした。僕はずっとフリーなので、提案しないと仕事がないわけ。自分で調べて面白そうな企画があったら、編集長やデスクのところへ行ってみんな直談判していました。会議でプレゼンをするということは、既にやったものがあるということで、やった人がいるということ。それは広告制作の作り方で報道じゃない。面白そうだと思ってやってみるので、まだ起こってないものはプレゼンしようがないわけです。プレゼンできるというのは後追いでしかない。プレゼンする理由は「もしウケなくても、みんなその企画でいいって言ったでしょ?」というリスク分散でしかないわけです。それにこの特集をやると決めても、自分の企画じゃないものをやったりしたら、その時点で本人のモチベーションゼロですよ。会議がすべてダメなわけじゃないけど、ものづくりには絶対向いていない。エネルギーやアイデアをつぶしています。他の職業は分からないけど、編集会議は今すぐやめたほうがいい。
先走って口からもらしてしまいます。
<これまで以上に、よくなるよ、日本。>
ああ、言っちゃった。
軽率だと言われるかもしれないけれど、
そうしなきゃ、残った人間の価値がない、と思うんです。
反省も悲しみも、懺悔の気持ちもこめて。
これまで以上に、よくなるよ、日本。
そんな気がしませんか?
何度もくりかえし言ってきました。
そういうふうにしている人が、たくさん見つかります。
とても心強いです。
ずいぶんきつい場所にいながら、
あるかぎりの笑顔を見せてくれる人もいます。
ぼくらのほうが、ありがとうと言いたい気持ちです。
Twitpic - Share photos and videos on Twitter ピンクマスターの印刷見本。 「紙の版〈ピンクマスター〉の試し刷りが上がってきた。細かな網点の表現は難しいようですが(100%70%30%の三段階にそれぞれ色飛びしている)黒100%の文字や線はきれいに出ていました。」とのこと。(横須賀拓さん)http://twitter.com/skabee/status/9921958682566656
「黒いインクが印刷された、物理的な紙の束を店頭に並べて販売し、それと引き換えに顧客から、代金を受け取る流通業」というような定義しか出来ないようでは、21世紀の前半のうちに、「書店・本屋」という商売自体が消えてゆくだろう。それは書店の店主や店員さんの一人ひとりが「勤勉」だとか、「怠惰」だとか、「保守的」だとか、そういう次元とは関係のない、ある種の「自然現象」のように進んでいってしまう、と私は思っている。丁度、ロウソクが消え、馬車が消えていったように・・・。
私が思うに「書店・本屋」という業界が21世紀初頭における、もろもろの外部状況を考慮に入れて、その業態と存在価値を再定義すれば、「最先端の文化・教養に対し、単なる「情報」のみに留まらないヒトおよびコトも含めて、新鮮な驚きを持って出会える偶然性(いわゆるセレンディピティと言ってもよい)を提供すること」になるべきではないだろうか。
(略)
つまり、21世紀の書店は「情報」を売ってはいけない。いわんや「紙の束」としての本を売るつもりでもいけない。これからの書店は、(自分の狭い興味範囲を超えた)情報との「出合い方」や、自分に必要な情報をもった人物と出会える「機会・文脈」を売っていく気構えを持つべきである。これは、平たくいうと、書店ではなく「知のスポーツクラブ」とでも銘打つべき業態だろうか。月会費制でのインテリ・ホワイトカラー向けのサロン業、つまり、レンタルオフィスやいわゆるサードプレイスの提供(高級自習室の提供)、会員相互のテーマごとのセミナー活動や、トークイベント、カルチャーイベントの開催などまでも手がけていくくらいに覚悟でないと、私が死ぬころには(寿命を全うできるとすればw 21世紀半ばか?)跡形もなく消えているかもしれない。
しかるに、この(自分の狭い興味範囲を超えた)情報との「出合い方」や、自分に必要な情報をもった人物と出会える「機会・文脈」を提供する機能というのは、本来的には、大学のような教育機関の仕事でもある。今や、大学も書店も、その本来的な使命、提供価値(社会人教育のインフラたるべし)において差異がないのだから、境界線が消えていくのだろう。特に都心の大型書店には、圧倒的な知名度、特に場所としての認知度、好立地などの優位性があるのだから、早めに上記のような業態転換にぜひ、取り組んでしてもらいたい。
横尾 (略)デザインは未来でも過去でもなく、「いま」じゃないですか。常に「いま」というぎりぎりのところに立っている。塀の上を歩いているような、右が過去で左が未来、みたいなね。そういう非常に危なっかしい立場にあると思うんですよね。
永井 「いま」というのを設定するには過去の積み重ねがあって「いま」の時間があるわけですよね。それが未来に移って行く、通過点の一瞬が「いま」だから。だから過去っていうのをもう少しね、過去からの歩みみたいなものが、しっかり身についていないと、的確な「いま」は表現できない。「いま」だけを見ようとすると、つい「いま」の状況に吸い寄せられてしまった希薄なものになりがちなので、過去からの積み重ねのしっかりした芯が弱くなってきているというのが問題なんですよね。
「見る」は、いかにも主体的な行為で、
「見られる」対象にはたらきかけるという感じです。
それにくらべると、「聞く」のほうは、
「ちゃんと聞け」なんて具合で、
主人公は相手の側で、
「聞く」ほうの人はそれに対して受動的にいるだけ。
一見、なんにもしてないようにも見えます。
耳はまばたきもしないしね、
よく聞いているからといって輝いたりもしない。
だから、どうしても「聞く」って
たいしたことないと思われがちなんだよなぁ。
だけどね、「聞く」っていうのは、
もう、ほんとにすごいことなんだ。
しかも、誰でもできる。
企業とかに勤めはじめたばかりの新人だったら、
とにかく人の言うことをよく「聞く」だけで、
実にいい仕事をしていることになるんだよ。
「言う」人は、聞かれたいから言ってるんだからね。
ちゃんと聞いているかそうでないか、
見えるような証拠もないだけに、
よく「聞く」か、いいかげんに「聞く」かは、
自己申告、自己判断なんだよ。
マナーに近いものなのかもしれない。
だけど、よく「聞く」人と、
いいかげんに「聞く」人の差は、
あきれるほど、どんどんと開いていくものなんだ。
人っていうのは、「聞く」人に向かって話すからね。
こいつは「聞く」な、と思えば、
その人のために、どんなことでも話すようになる。
そういうものなんだ。
ことばそのものを「聞く」だけじゃなく、
ことばの奥にある「気持ち」だって、
「聞く」ことができるようになる、だんだんとね。
やがては、直接にことばの素になるようなことまで、
「聞く」ことができたりもするんだ。
たぶん、あの果物のりんごにも聞けるし、
魚の言いたいことも聞ける、石ころでも聞ける。
目に見えないことのほうが、見えることよりも
たっぷりと豊かなのかもしれないと、
「聞く」ことをくり返しているうちに、
わかるようになるかもしれない。




