1 その土地の開拓者であること。少なくとも、その土地への愛があること。
2 その土地らしさを意識していること。
3 オーナーの意志が感じられること。
4 やりたい意志のためのデザインがうまく投入されていること。
5 サービスや味がしっかりしていること。
6 金額の設定に納得ができること。
7 居心地があること。

例えば、東京からデザイナーを投入して、旅館の再生をしたとする。その旅館を想像して、上の7項目を考えてみて欲しい。場合によっては、思いつく地元のものに当てはめてみて欲しい。
はっきりダメなのは、デザインが際立ち過ぎているもの。特にデザイナーの名前を全面に売っているようなもの、こと、場所は寿命が短命になるに決まっている。「話題性」に頼ると、「話題性」に溺れてしまう。試しに、話題のデザイン旅館から、表面のデザインをすべて取り払ってみて欲しい。問題はそこに何が残るかである。これは、ジャパンブランドにも、人にも、そして、その土地にも言える。
いい店や、いい場所、いい県には、開拓者がいる。成功している県は、その行政にある人格が見える。外の力は利用して20パーセントくらい。残り80パーセントは、内から湧き出たもの、そういう体質でないと、継続すらしない。
どんなもの、こと、人にも景気は左右するけれど、最終的に生き残るものには、この定義が感じられる。

これからの時代は空想ではなく、体験だ。イメージではなくて、実際なんだと思う。目に見えないものに憧れてしまいがちな、いわゆる未来だけれど、やはり、かなり泥臭いところにしか、人間は生きられないように思う。
雑誌の広告枠をとんでもない高額で買い、時間のない中でデザイン事務所に任せ、他人を代表したコピーライターに、当たり障りのない褒め言葉のようなコピーを書いてもらった広告なんて、もう、生活者はみないのだ。そんなものでものを買ったりはしない。問題は発信するその会社が「そうしているか」を感じとれるかどうかであって、作り込んだイメージなんかで、人は動かない。

そのデザイナーに仕事のプロセスを見せてもらった時以来、私は考え方が変わってしまった。「不定型な仕事だから、どれだけ時間がかかるかは分からない」という言い方をしないようになった。そればかりか、他人のそういう発言も、単純には鵜呑みにしないようになった。そして設計や計画やデザインの質が低いのは、時間を費やせなかったせいではないかと疑うようになった。

デザイナー以外にも、不定型な仕事をしている人には何人も出会った。音楽家、映画監督、映像展示プロデューサー、建築家といった、事務作業や力仕事とはほど遠い業務に従事する人たちだ。こうした職種の人たちの多くは、成果物で報酬を得ている。しかし、よく聞いてみると、この人たちもたいてい、仕事に費やす時間や工数をかなり正確に見積もっているのだ。それどころか、報酬額が自分に必要な工数の分に足りないときは、どこを押さえてどこで手を抜けばいいかさえ、ちゃんと計算している。自分の評判を下げない程度に、質をキープする知恵である。いかにもプロフェッショナルである。

諦めなくて本当に良かった。いや、俺が諦めるのを諦めろ精神大事ですわ。
●昨日、朝食をしながら、テレビ朝日を見ていたら、藤城清治の影絵を取り上げていた。今、85歳だと言うのに、長崎の軍艦島を取材していた。無人の廃墟と化した瓦礫の中を、短いズボンを穿いて、ひょこひょこと歩き廻り、観察して、スケッチしていた。その後、スタジオにこもり、2ヶ月間かけて作品に仕上げた。右の人差し指と中指に市販の片刃のカミソリを挟んで、型紙を切り抜いてゆく。カミソリは、もはや自分の指に溶け込み、挟んだまま、タバコを吸ったり、珈琲を飲んだりする、とも言っていた。すごい、芸術意欲だと感激した。

写真を見ると、必ず写している人の事を感じる。
それは気配として写真に張り付いている。

実は絵でも同じだ。
描いている人の気配を感じ、
その気配が良いものならば、自分にとっては良い絵なのだ。

作為が見え見えだったり、
無理な努力ばかりが目立ったり
自尊心ばかりがでしゃばっていたり
うるさいぐらいに説明的だったり
ネタ以外の意図が見えなかったり

するようなのはまずパスしたくなる。
その上写真で人間を写した場合には
被写体の演技も加わるのでなおさら厄介だ。
写す人に起きることと同じことが被写体にも生じ
ダメ出し度はさらに加速するのだ。

こういう風にビジュアル表現を常に見ているというのは一般的ではないのかもしれない。
でも、そんな見方が不自然であるとはちっとも思っていない。

作為の不気味さによって、それが怖くて泣き喚く子供を想像してみるといい。
世界は作為に満ち溢れていて
それはミッキーマウスの被り物をしたアルバイトのように怖く写るのだ。
そしてその怖さは、明らかに、
例えば防御本能によって牙を剥き出す犬の怖さとは違うのだ。
怖いものは怖くあるはずなのに
優しさが怖くなる瞬間がそこに現れる。

おそらくそれは演じる側の嘘をつき通す態度なのだ。
しかもその嘘は
覚悟のある嘘ではない。
君の前では嘘をつき続けるけど、君の前でない時は秘密だよ
っていう嘘なのだ。

一見、モダンでシャープでシンプルでしかもカッコ良く見える写真が
実はそんなかぶりもので作られていることが何と多いことか。
その不気味さの正体を何と言っていいのか分からないけれど、
少なくともそれを拒否することは可能なのだ。

 自分にとって不足していると感じる能力は、時にハングリー精神と語られるものである。一方で「足るを知る」ということの大切さも語られるが、衝動とも言うべき原動力を喚起するのは、この不足感ではないかとわたしは思う。渇望し、その不足感を補おうとすることが、クリエイティブな行為の原初的なエネルギーになる訳で、その意味において、早川にとって何を渇望せざるを得なかったかを考えることは無駄ではない。あらたまって早川を捉えてみると、踏み込んで考えるべき領域が、幾つもあることがわかってくる。
疑問をもつことからしか知恵は創造できない。
何かになりたい、何かを手伝いたいと思っている人は沢山いるのですが、『じゃあ、何か作っているものを見せて』って尋ねると、『いや、まだ……』っていう事が多いんですよ。結局は、常に作品を創る、アウトプットし続ける事が大切だと思うんです。企画を暖めておくのではなくて、考えたことはすぐに作っておく。それを作って他人に見せれば、絶対に見つけてくれる人がいるので、口よりもまず手を動かす。不器用なりにも形にすることがいちばん大事だと思います
根本的に人間の脳はクリエイティブなものなんです。人間が地球に生まれて、『とにかくなんとか生きていかなければならない』という思考錯誤の連続の最終地点が人間の脳なんですから
表現をして生きていくということは、
きみを大好きなひとが横を走ってくれている
ということであると同時に
きみを大嫌いだという人も、
いっしょについてくることなんだ。
そっちを見ちゃだめだよ。ぜったいに
 この世の人たちは、名を記す必要のない品物の値打ちを、もっと認めねばなりません。そうして自分の名を誇らないような気持で仕事をする人たちのことを、もっと讃えねばなりません。そこには邪念が近づかないでしょう。ですから無心なものの深さに交り得たのであります。この世の美しさは無名な工人たちに負うていることが、如何に大きいでありましょう。
 観察すればするほど新しい興味もわいてくる。さらにアンチテーゼをもつこともできる。
 正確な観察があってこそ、正確なアンチテーゼをもつことが許される。私たちの仕事にとって、このアンチテーゼをもっているかどうかは非常に重要なことである。
 アンチテーゼは、発想に直結する。つまり、見方を変えるためのエネルギーである。ワクの中で、いくら懸命に走っても足が地から離れることはない。人間が正しいと決めたものの裏を正面にすえてみる。快適に対する不便、孝行に対する極道、信頼に対する冗談、こうした罪悪すれすれのネガティブな視点から、発想が生まれる。
 観察の努力を惜しまなかった人だけが、のびのびした発想の権利を手に入れられるのだ。ほんとうの創造には連帯は望めにくい。発想は、ひとりだけの出来事である。
自分も他者である。不信からはじまる。