横尾 (略)デザインは未来でも過去でもなく、「いま」じゃないですか。常に「いま」というぎりぎりのところに立っている。塀の上を歩いているような、右が過去で左が未来、みたいなね。そういう非常に危なっかしい立場にあると思うんですよね。
永井 「いま」というのを設定するには過去の積み重ねがあって「いま」の時間があるわけですよね。それが未来に移って行く、通過点の一瞬が「いま」だから。だから過去っていうのをもう少しね、過去からの歩みみたいなものが、しっかり身についていないと、的確な「いま」は表現できない。「いま」だけを見ようとすると、つい「いま」の状況に吸い寄せられてしまった希薄なものになりがちなので、過去からの積み重ねのしっかりした芯が弱くなってきているというのが問題なんですよね。
I love this letterpress Ampersand Identification Chart, by Douglas Wilson. It’s £35, and it comes with an identification card with the names of the 61 ampersands. (Via swissmiss.)
モリサワ文字文化フォーラムで北川一成のいう「身体性」について思うところの勝手な補足。北川さんがフォーラムで紹介してくれた、六本木アートナイトとか成安造形大とかの仕事をみると、デザインを置いたときの周辺の余白のざわめきみたいなもんに気付かされる気がしました。
対して僕らのやつは、あんとき見せたISETANのディスプレイとか、時間の都合で見せられなかったPLaygram( http://bit.ly/deHKVq )とか、そのものを身体で感じるっていう、どちらかというと内向きのベクトルにおいての身体性なのかもしれないなぁと感じたのです。
成安造形大のやつとか、実は網点が【】だったとかっていうのは内向きの身体性ではありましたが。イームズの「Powers of 10」みたいな、ミクロとマクロの両方向への身体性みたいなもんを互いの仕事内容を観て、自分なりに感じました。
デザインという職業は、近代産業の中で、ひとつのひな型が大量生産される事を前提に成立しました。従ってこれほどの少量生産では、従来の意味でのデザイン・ビジネスは成立しません。しかし、「先端技術と人の関わりを設計する技術」という意味でのデザインが必要とされているのは明らかです。その意味では、マス・プロダクションの申し子であるデザイナーという職能が、真のマイノリティに対するローカルカスタマイズに、どのように貢献できるのかを問う試金石であるように思います。
この義足を見た、障害者医療の研究者の一人がこんな声をかけてくれました。
「この義足を使って走る人は、数十人かもしれない。しかし、その人たちが大観衆の前で走れば、その瞬間にこれは何万人もの足になるでしょう。」
あらゆる物事が、何気なく生活している人の営みと関係していて、普段は気がつかないものとして営みの流れのなかに溶け込んでいる。デザインの仕事は、その気がつかない営みのなかで与えられた課題がどのように人と関係しているのか、届いているのか、感じられているのか、もしくは影響しているのかを改めて意識し、言語化して、あるときは見えるものにし、あるときは体験を用意し、あるときは引き算をし、人と事の間に立って両者を繋ぐことなのである。
このように、普段意識化されないところに意識を持って行って、言語化するところまで自分を追い込むという習慣が、デザイナーには必要なのではないかと思う。それは「なんとなくいい」という曖昧な印象にピントを合わせて、何がそう感じさせたのか、その理由を言葉にできるところまで探るということであり、その訓練はデザインの仕事上、少なくとも2つ役に立つことがある。
1つは、多くの人が携わる制作の現場で、考えかたを共有するコミュニケーションのため。そしてもう1つは、人が共通に感じる普遍に、はっきりとした輪郭を持たせるためである。この力がないと形や色の判断を瞬時にできない。つまり、この「言語化する力」を鍛えないと普遍的なデザインはできないのである。
1 その土地の開拓者であること。少なくとも、その土地への愛があること。
2 その土地らしさを意識していること。
3 オーナーの意志が感じられること。
4 やりたい意志のためのデザインがうまく投入されていること。
5 サービスや味がしっかりしていること。
6 金額の設定に納得ができること。
7 居心地があること。
例えば、東京からデザイナーを投入して、旅館の再生をしたとする。その旅館を想像して、上の7項目を考えてみて欲しい。場合によっては、思いつく地元のものに当てはめてみて欲しい。
はっきりダメなのは、デザインが際立ち過ぎているもの。特にデザイナーの名前を全面に売っているようなもの、こと、場所は寿命が短命になるに決まっている。「話題性」に頼ると、「話題性」に溺れてしまう。試しに、話題のデザイン旅館から、表面のデザインをすべて取り払ってみて欲しい。問題はそこに何が残るかである。これは、ジャパンブランドにも、人にも、そして、その土地にも言える。
いい店や、いい場所、いい県には、開拓者がいる。成功している県は、その行政にある人格が見える。外の力は利用して20パーセントくらい。残り80パーセントは、内から湧き出たもの、そういう体質でないと、継続すらしない。
どんなもの、こと、人にも景気は左右するけれど、最終的に生き残るものには、この定義が感じられる。
そのデザイナーに仕事のプロセスを見せてもらった時以来、私は考え方が変わってしまった。「不定型な仕事だから、どれだけ時間がかかるかは分からない」という言い方をしないようになった。そればかりか、他人のそういう発言も、単純には鵜呑みにしないようになった。そして設計や計画やデザインの質が低いのは、時間を費やせなかったせいではないかと疑うようになった。
デザイナー以外にも、不定型な仕事をしている人には何人も出会った。音楽家、映画監督、映像展示プロデューサー、建築家といった、事務作業や力仕事とはほど遠い業務に従事する人たちだ。こうした職種の人たちの多くは、成果物で報酬を得ている。しかし、よく聞いてみると、この人たちもたいてい、仕事に費やす時間や工数をかなり正確に見積もっているのだ。それどころか、報酬額が自分に必要な工数の分に足りないときは、どこを押さえてどこで手を抜けばいいかさえ、ちゃんと計算している。自分の評判を下げない程度に、質をキープする知恵である。いかにもプロフェッショナルである。
帰りにミッドタウンのTSUTAYAで『文字講座』と『デザインの輪郭』深沢直人を購入。
(言い方として適切かどうかと思いますが)前者はほんとに何でもないような本なのに、なんとなくすごく好きだなあと思ったら、装丁が有山達也さんだった。
ああ、デザインってすごいなあ。

