現下の“出版大崩壊”は,十数年前の“写植業界の崩壊と激変”と酷似している,と思う。私もそうだが人は激変の只中では置かれた状況を相対化し難い。閑話休題。96-97年頃,各地の写植組合はDTP組合へ改称した(東京写植組合第7支部に属す私も恥ずかしながら名称検討討議に参加していた)…

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… 当時既に手動写植は電算写植に主役を譲っていた(電算写植は技術としては今のDTPに地続きだ)。ところがそれも業界の激変のなかで仕事が激変,食えなくなるのではという不安は日々のやり繰りの中で爆発しそうだった。そこに,時流に従いDTP組合への改称で生き残りが図れるのではという提案が…

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… 現れた。歌は世につれともいう。確かにそう。が,世は歌につれと言えるのかどうか。現実から遊離した名前は現実に合わせればよいだろう。しかし問題は違った。「自らの現実」が「時流の現実」から遊離していっていたのであって,変えるべきは現実から遊離した名称ではなく「自らの現実」だったのだ…

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…以後の変化は目まぐるしく,写植は間もなく歴史の舞台から消えた(写植の時代は活版と比較出来ぬほど短く,果たして記録も残るのか?)。さらにDTPに切り替えた業者もひと息つく間もなく組版専業で食えなくなるのに10年とかからなかった。 http://bit.ly/2TK8gH 【続】

紙媒体、じゃなくて紙が(も)メディア。…QT @cmrr_xxx 僕は紙のメディアとしての可能性を信じる。全ての手触りが電子信号に書き換わったとしても、好きな本は手放せないと思う。


EPUBと比べるとPDFが固定するための形式って前につぶやいたけど、デジタルメディアと紙にも同じことが言えるなと思った。動的でフレキシブルなものと、固定するものは「どっちか」じゃ面白くない。境界に立って見る世界が一番面白い。


私は仕事では固定するものを扱いながら、動的なもののことばかり考えてる。むしろ、デジタルメディアの可能性に誰よりも憧れているから、紙のことをやってる。だって「両極が同時に存在するのが面白い」ことだけは確実だとしたら、紙のことをやっていればデジタル全般と関わることができるんだから。

ツイッターには危険なところもある。たくさんのフォロワーを抱える人ほど気をつけないといけないのは、フォロワーの多くは自分に関心を持ってくれている賛同者、サポーターであるという点だ。そもそも嫌いな人、意見の合わない人をフォローしようとは思わないものね。(情報の発信者とフォロワーの関係にはそうした偏りがあり)人々の「本当の反応」はつかみにくいメディアだ。

 僕のフォロワーは1万5千人いて、1万人を超えるとマス(大集団)といえるが、僕を支持する側に立つ人たちのコミュニティーだということを忘れてはならない。僕のつぶやきに対して批判的なコメントも来るが、やはり前向きなコメントの方が多い。これを「民の声」と勘違いすると、だんだん「オレの言うことは正しい」と裸の王様になってしまう。

 ツイッターですべてが変わるとか、メディアがいらなくなるとか言っている人が結構いるけれど、それはちょっと違うなあ。

目の前のたった一人にも、一億人にも、60億人にも、ちゃんと届く言葉と表現。マスもマイナーもない。メディアであるというのはその矜持が必要なのだと思う

デザイナーとプログラマーの友人が、いまはいちばん頼りになる。いままで一度も「編集者の友人がいてくれて頼りになる」と言われたことがないのは、きっとあまり頼りにならないからだろう。

出版業界崩壊(あるいは再構築)後の、編集者やライターの再就職=キャリア設計問題。これ、本気でとりくまないと大変なことになると思う。わがこととしても。

2年前に「路字」をはじめたのも、コミュニティと編集、という組み合わせに新鮮さを感じたから。同じ理由で、最近は企業との仕事も楽しい。企業もひとつのコミュニティであり、外からの視線による編集をもとめている。

正直な話、出版業界とする編集の仕事が、いちばん刺激が少なくてつまらないし、お金にならないのだよ。

「○○を編集する」、の○○に相当するものをどんどん広げていけば、いくらでも編集者の仕事は存在すると思う。むしろこれまでの出版の世界の外に。

編集とは、人やコミュニティや集団がもつ価値を、当事者の意思を超えて無意識のところまですくい取り、可視化してプレゼンテーションすること。そのためのパッケージ化を、デザイナーやエンジニアと協業で行うオルガナイザーであること。

そう考えたら、「編集」の仕事はまだまだたくさんある。そういう仕事をするときは、「編集者」という肩書きではないほうがいいのかなぁ。一般的に、そういう仕事はなんと呼ぶのだろう。

これからの編集者は、1)出版企画をビジネスとして成功させ、レベニューシェアで編集印税を得る 2)広義のコミュニティのオルガナイザーとなり、営利目的以外の価値で対価を得る、の二つに分化していくのではないか。個人的には、後者として機能する領域を拡大したい。

たとえばいろんな企業と仕事をしてみて思うのは、彼らが驚くほど自分たちのもっているメディア的な価値に無自覚であること。自己評価と外からの評価において、外からの評価が高い場合、それを可視化してあげることは、むしろクライアント自身にとって意味をもつ。

そういう意味ではたしかに編集という仕事はコンサルティングに近いかも。もちろん、コンサルだけではお金がもらえないので、メディアをつくる。実際になにかをつくってみないと、分からないことのほうが多い。

「路字」も、フリーペーパーをつくることは目的ではなくて、町にコミットするための手段だった。メディアをつくることで、目に見えないコミュニティを可視化させることができる。それは「マガジン航」も同じ。ウェブやフリペのいいところは、スタートアップの容易さにある。

これからの時代は空想ではなく、体験だ。イメージではなくて、実際なんだと思う。目に見えないものに憧れてしまいがちな、いわゆる未来だけれど、やはり、かなり泥臭いところにしか、人間は生きられないように思う。
雑誌の広告枠をとんでもない高額で買い、時間のない中でデザイン事務所に任せ、他人を代表したコピーライターに、当たり障りのない褒め言葉のようなコピーを書いてもらった広告なんて、もう、生活者はみないのだ。そんなものでものを買ったりはしない。問題は発信するその会社が「そうしているか」を感じとれるかどうかであって、作り込んだイメージなんかで、人は動かない。
批評が目的ではありません。関心の輪を広げることが目的です。輪の中から批評は自ずと立ち上がります。スモールメディアがつながれば、新しい形のデザインジャーナリズムが見えてくるかなって思ってます。そんなことを@btfのトークを振り返りながら考えてます。

たとえば、僕が関わることの多いメディアとしては、
「雑誌」「ブログ」「レクチャーやトーク」があるとすると、これは公共なものから
私的なものへの順番でもある。「公共」の度合いを「距離感」で説明してもいい。
雑誌で展開できないことをブログでやり、ブログにも書かないことをトークで
伝えたりしてるのだが、そのトークがネット配信されるとうことは、それによって
公共性が高まって、ブログレベルに引き揚げられてしまうような気がしたのだ。
トークに来てくれた人に対して「ここだけの話なんだけどさ」という話題を
披露することができないじゃないか、と。

(略)

トーク(一対多、一対一ともに)というのはもっとも古いタイプのメディアであり、
今でも最高に魅力的な伝達手段ですよね。トーク(一対多、一対一ともに)というのはもっとも古いタイプのメディアであり、
今でも最高に魅力的な伝達手段ですよね。

「テキストはできるだけ正確であるべし」という誰もが当たり前のように抱いている常識が、「紙」という有限で後からの修正が難しい媒体ゆえの縛りでしかないとしたら……。

俺が思うに、ネットの進化はいずれニュースサイトやブログを滅ぼす。あれは新聞や雑誌を知っている世代の代替物であって、なにもネット上で「新聞や雑誌の真似事」をする必要はない。情報はあそこまで厳密でなくていい。今のニュースサイトやブログでも、まだ厳密過ぎる。

最終的にネットのマスメディアは、膨大な噂話の集合体みたいになるんじゃなかろうか。TwitterやTumblrの方向性が極まった感じ。

メディアが早くなるにつれて感情が込められやすくなるということは以前から言っていたこと。Twitterはとてもパーソナルなメディア。現場にいる個人からのパーソナルなメッセージを読むことは、一体感を生み、自分に何ができるのだろうかと考え、アクションをとるようになる。安全なウェブプロキシーとか、Twitterにメンテを遅らせるよう働きかけるとか。
誤解する人がいるので、言っておくが、TVとネットの比較なりをするときに、必ず「動画コンテンツ」の話をする人がいるが、これは完全に的外れである。TVとネットの競合は、「動画コンテンツ」としての競合ではない。もちろんTVの表現形態はほぼ動画コンテンツに集約されるが、ネットはそうではない。テキストや画像、音声など様々な表現形態がある。 テキストを侮ることなかれ。下手なTVの動画によるバラエティ番組よりも、2chの掲示板の方が面白い事も多いし、それよりも恋人とメールのやり取りを繰り返している時間のほうが幸せだろう。
学生の時に雑誌を創刊して、その後も何かと節目に雑誌を作っている人がいる。その人いわく、「メディアを作れば対談也取材なりということで格上の人と会うことができる。自分にとってはメディアは発信するモノではなくて、機会を作るためのもの」とか。おもしろい意見。