—「後追いはしない」のは昔からですか?

都築 僕は「POPEYE」に5年間、「BRUTUS」に5年間携わりましたが、編集会議って1回もありませんでした。僕はずっとフリーなので、提案しないと仕事がないわけ。自分で調べて面白そうな企画があったら、編集長やデスクのところへ行ってみんな直談判していました。会議でプレゼンをするということは、既にやったものがあるということで、やった人がいるということ。それは広告制作の作り方で報道じゃない。面白そうだと思ってやってみるので、まだ起こってないものはプレゼンしようがないわけです。プレゼンできるというのは後追いでしかない。プレゼンする理由は「もしウケなくても、みんなその企画でいいって言ったでしょ?」というリスク分散でしかないわけです。それにこの特集をやると決めても、自分の企画じゃないものをやったりしたら、その時点で本人のモチベーションゼロですよ。会議がすべてダメなわけじゃないけど、ものづくりには絶対向いていない。エネルギーやアイデアをつぶしています。他の職業は分からないけど、編集会議は今すぐやめたほうがいい。

「黒いインクが印刷された、物理的な紙の束を店頭に並べて販売し、それと引き換えに顧客から、代金を受け取る流通業」というような定義しか出来ないようでは、21世紀の前半のうちに、「書店・本屋」という商売自体が消えてゆくだろう。それは書店の店主や店員さんの一人ひとりが「勤勉」だとか、「怠惰」だとか、「保守的」だとか、そういう次元とは関係のない、ある種の「自然現象」のように進んでいってしまう、と私は思っている。丁度、ロウソクが消え、馬車が消えていったように・・・。

私が思うに「書店・本屋」という業界が21世紀初頭における、もろもろの外部状況を考慮に入れて、その業態と存在価値を再定義すれば、「最先端の文化・教養に対し、単なる「情報」のみに留まらないヒトおよびコトも含めて、新鮮な驚きを持って出会える偶然性(いわゆるセレンディピティと言ってもよい)を提供すること」になるべきではないだろうか。

(略)

つまり、21世紀の書店は「情報」を売ってはいけない。いわんや「紙の束」としての本を売るつもりでもいけない。これからの書店は、(自分の狭い興味範囲を超えた)情報との「出合い方」や、自分に必要な情報をもった人物と出会える「機会・文脈」を売っていく気構えを持つべきである。これは、平たくいうと、書店ではなく「知のスポーツクラブ」とでも銘打つべき業態だろうか。月会費制でのインテリ・ホワイトカラー向けのサロン業、つまり、レンタルオフィスやいわゆるサードプレイスの提供(高級自習室の提供)、会員相互のテーマごとのセミナー活動や、トークイベント、カルチャーイベントの開催などまでも手がけていくくらいに覚悟でないと、私が死ぬころには(寿命を全うできるとすればw 21世紀半ばか?)跡形もなく消えているかもしれない。

しかるに、この(自分の狭い興味範囲を超えた)情報との「出合い方」や、自分に必要な情報をもった人物と出会える「機会・文脈」を提供する機能というのは、本来的には、大学のような教育機関の仕事でもある。今や、大学も書店も、その本来的な使命、提供価値(社会人教育のインフラたるべし)において差異がないのだから、境界線が消えていくのだろう。特に都心の大型書店には、圧倒的な知名度、特に場所としての認知度、好立地などの優位性があるのだから、早めに上記のような業態転換にぜひ、取り組んでしてもらいたい。

未来の編集者は、言葉通り「集めて編むこと」をやる人になる。

それは「テキストを集めて、編む」ということでもあるし「人を集めて、編む」ということでもある。

たとえばtwitterには少なくとも300人ぐらい大のインコ好きがいるらしい(以下、大のインコ好きの友達から聞いた話を元に構成した)。
日本のTwitterユーザーが、いま450万人(国内ユーザー450万人? 「Twitter」のいまが知りたい)として大雑把に換算すると大のインコ好きは1万人。
そこで、編集者が、インコ・コミュニティの中で、誰かに文章を書いてもらったり、インコの飼い方本を作る人を集めたりする。
そういうことは、これからのネット社会ではどんどん行われるようになってくるはずだ。
それが編集の仕事だ。
もちろん、テキストを集めて、編むだけじゃない。
人を集めて、編むのも大切な仕事だ。
インコ好きは、デザインの優れた鳥カゴがないことに不満を持ってる人が多いらしい。鳥カゴを作ってる人と、プロダクトデザイナーを見つけて出会ってもらう。そうやって、インコ好き向けの鳥カゴを作ってもらうのも、編集の仕事だ。集めて編むのだ。
インコイベントをやるのもいい。そのための出演者を集めたり選んだり、適したイベント会場を見つけたり、興味のある人にイベントのことを伝える方法を考えたり。

いままでは、紙の本を作り出す過程をサポートする人を編集者と呼んでいた。
でも、これからは、さまざまなコミュニティの中で、テキストやモノや映像や人を集めて編むことが、編集の仕事になると、ぼくは考えている。

米光 今まで編集者の多くは、仕事の領域を紙の本や雑誌に限っていたんです。もちろん、本を出すには、ものすごく編集の知識や技術がいる。電子書籍になっても、いる。そもそも、出版社ってまず入るのが大変。入って、そのバックボーンを持ってやらなきゃできなかったんだけど、電子書籍になると、そういうバックボーンがいらない。

 つまり、今まで編集者は出版のプロフェッショナルだった。でも、今からは、編集技術よりテーマやコミュニティに軸が傾いてもいい。(略)

タカギ (略)米光さんがおっしゃった電書は、そういうコミュニティーが全国で自然発生的にできている中でやるには、本当にコストがかからない、いいハブなので、ぜひやりたいと思っているところです。

米光 未来の編集者像を話すときにインコ編集者の話をたびたび出して、それでタカギさんが会社辞めちゃって「ひゃ、だいじょうぶか」とか思ってたけど、「小鳥サミット」などの活動をはじめて、どんどん「新しい編集者」になったので、驚いた。

 ネットだと個で動いて繋がることができる。新しいニーズがある。テレビや紙の本だけでは、そのニーズは見つけられなかった。インコの知り合いは近所では見つからないけど、ツイッターで探せば一気に見つかる。コミュニティーの見つけやすさとコストのかからなさって、この数年で激変している。

タカギ 「電書革命」の時に、物と物語をくっつけて、それごと商品にして売るということを書いていましたよね。自分が作って発送して届くまでの物語というか、そういうコミュニケーションを含めた代金が、Tシャツの値段である3900円なのかなと思いました。

①<新しい頁をきりはなつとき/紙の花粉は匂ひよく立つ>。室生犀星の詩『本』である。(中略)◆真新しい紙の匂いか、インクの匂いか。いまはフランス装の本をあまり見かけないが、普通に製本された書物でも、花粉にたとえたくなる新刊書の香りは読書好きの人ならば知っている◆(続く)

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②◆谷川俊太郎さんが詩集『詩の本』(集英社刊)のあとがきで「匂い」に触れていた。<…手にしたときの重さ、匂い、ページを繰るときの紙の手触りなど、栞をはさむというささやかな行為すら、詩の一部だと感じさせるのが詩の本の魅力だろう>と◆(続く)
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③◆“電子書籍元年”という声も聞こえるなかで迎えた読書の秋である。携帯端末で読む電子書籍にはそれなりの便利さがあるにしても、紙の書籍がもつ匂いの魅力が消えることはあるまい◆読売新聞編集手帳(9月23日付)より

現下の“出版大崩壊”は,十数年前の“写植業界の崩壊と激変”と酷似している,と思う。私もそうだが人は激変の只中では置かれた状況を相対化し難い。閑話休題。96-97年頃,各地の写植組合はDTP組合へ改称した(東京写植組合第7支部に属す私も恥ずかしながら名称検討討議に参加していた)…

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… 当時既に手動写植は電算写植に主役を譲っていた(電算写植は技術としては今のDTPに地続きだ)。ところがそれも業界の激変のなかで仕事が激変,食えなくなるのではという不安は日々のやり繰りの中で爆発しそうだった。そこに,時流に従いDTP組合への改称で生き残りが図れるのではという提案が…

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… 現れた。歌は世につれともいう。確かにそう。が,世は歌につれと言えるのかどうか。現実から遊離した名前は現実に合わせればよいだろう。しかし問題は違った。「自らの現実」が「時流の現実」から遊離していっていたのであって,変えるべきは現実から遊離した名称ではなく「自らの現実」だったのだ…

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…以後の変化は目まぐるしく,写植は間もなく歴史の舞台から消えた(写植の時代は活版と比較出来ぬほど短く,果たして記録も残るのか?)。さらにDTPに切り替えた業者もひと息つく間もなく組版専業で食えなくなるのに10年とかからなかった。 http://bit.ly/2TK8gH 【続】

佐野眞一
「電子、電子と騒ぐけれど、その前に著者と編集者が本当に作り込んで世に出している本がどれだけあるのかを顧みるべきです。電子ブックリーダーが増え、便利になったと言っても、それを買って本を読もうというのは、本屋や図書館に行った経験がある人たちです。iPadでゲームをしていた人が、たまたま画面の中で『白鯨』なんかの名著を見かけたとして、買うはずがない」

本は20世紀最強のビークルだと私はおもいます。モバイルだし、簡便だし、情報量はたくさんある……しかし、一つの歴史的な変遷の中で、大量生産、 大量消費のシステム自体がが崩れていこうとしています。本だけではなく、すべてがです、それは歴史的な流れなのです。残念だとおもってもしかたない。であ るなら、我々の知恵で新しいモバイル、新しいビーグルをつくっていくほかはないです。

いろいろなツールが生まれていくことになるでしょう、まさにその中の一つに電子出版の動きもあるのです。ですからいま柴田秀利が電子出版として紹介 されていることに、ちょっとした驚きと感慨を感じずにはいられません。柴田さんという人は、それに値する長い視野をいまでも伸ばし続けている人なのでしょ う。

紙媒体、じゃなくて紙が(も)メディア。…QT @cmrr_xxx 僕は紙のメディアとしての可能性を信じる。全ての手触りが電子信号に書き換わったとしても、好きな本は手放せないと思う。


EPUBと比べるとPDFが固定するための形式って前につぶやいたけど、デジタルメディアと紙にも同じことが言えるなと思った。動的でフレキシブルなものと、固定するものは「どっちか」じゃ面白くない。境界に立って見る世界が一番面白い。


私は仕事では固定するものを扱いながら、動的なもののことばかり考えてる。むしろ、デジタルメディアの可能性に誰よりも憧れているから、紙のことをやってる。だって「両極が同時に存在するのが面白い」ことだけは確実だとしたら、紙のことをやっていればデジタル全般と関わることができるんだから。

「編集」は 20 世紀が発見した重要なコンセプトです。
著者の主張などは 19 世紀にまかせておけばいい。
テクノロジーもメディアも編集の必要を追って変化してきました。
校正の概念にしても、
たとえば「かさねて」と「重ねて」が混在する文章で
書式をどちらかに統一しようとするのは、
バッハのクリティカル・エディションをつくるように
作者と作品の理念を優先する文化であり、
不統一のまま放っておくのは
口承と即興を尊重する文化と言えるでしょう。
こうして編集は知の考古学となります。
著者校などで責任を回避せず、自発性をもって判断してください。

書籍への注釈

iPadやKindleのような電子書籍関連デバイスが増えると、書籍に対する注釈共有も拡がると考えられる。

学校の国語の時間に、「一文の意味を検討する」という時間があったが、このようなことがWeb上でも可能となるのだ。

たとえば、「BookGlutton」では既に試みが始 まっている。ここでは書籍内の各文に対して議論を行うことができる。

デザイナーとプログラマーの友人が、いまはいちばん頼りになる。いままで一度も「編集者の友人がいてくれて頼りになる」と言われたことがないのは、きっとあまり頼りにならないからだろう。

出版業界崩壊(あるいは再構築)後の、編集者やライターの再就職=キャリア設計問題。これ、本気でとりくまないと大変なことになると思う。わがこととしても。

2年前に「路字」をはじめたのも、コミュニティと編集、という組み合わせに新鮮さを感じたから。同じ理由で、最近は企業との仕事も楽しい。企業もひとつのコミュニティであり、外からの視線による編集をもとめている。

正直な話、出版業界とする編集の仕事が、いちばん刺激が少なくてつまらないし、お金にならないのだよ。

「○○を編集する」、の○○に相当するものをどんどん広げていけば、いくらでも編集者の仕事は存在すると思う。むしろこれまでの出版の世界の外に。

編集とは、人やコミュニティや集団がもつ価値を、当事者の意思を超えて無意識のところまですくい取り、可視化してプレゼンテーションすること。そのためのパッケージ化を、デザイナーやエンジニアと協業で行うオルガナイザーであること。

そう考えたら、「編集」の仕事はまだまだたくさんある。そういう仕事をするときは、「編集者」という肩書きではないほうがいいのかなぁ。一般的に、そういう仕事はなんと呼ぶのだろう。

これからの編集者は、1)出版企画をビジネスとして成功させ、レベニューシェアで編集印税を得る 2)広義のコミュニティのオルガナイザーとなり、営利目的以外の価値で対価を得る、の二つに分化していくのではないか。個人的には、後者として機能する領域を拡大したい。

たとえばいろんな企業と仕事をしてみて思うのは、彼らが驚くほど自分たちのもっているメディア的な価値に無自覚であること。自己評価と外からの評価において、外からの評価が高い場合、それを可視化してあげることは、むしろクライアント自身にとって意味をもつ。

そういう意味ではたしかに編集という仕事はコンサルティングに近いかも。もちろん、コンサルだけではお金がもらえないので、メディアをつくる。実際になにかをつくってみないと、分からないことのほうが多い。

「路字」も、フリーペーパーをつくることは目的ではなくて、町にコミットするための手段だった。メディアをつくることで、目に見えないコミュニティを可視化させることができる。それは「マガジン航」も同じ。ウェブやフリペのいいところは、スタートアップの容易さにある。