私は『一隅を照らす』という言葉が好きなんです。 何を仕事にするかということに気持ちを向けるよりも、一つのことを一生懸命やってみるということに気持ちを向けていく方が大事だと思っています。

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今回取材をした中村圭一さんは、錫師(すずし)と呼ばれる職人の方です。

錫という金属を使って酒器や茶器などの錫製品を作る職人で、現在錫師は全国に20人しかいないと言われています。

錫は、奈良時代に中国から茶の文化と共に伝わってきたもので、日本では神社仏閣で使用されるお神酒徳利(注1)として広く知られており、現在でも一般的な 家庭で茶器や酒器として錫は使われています。錫器は、使えば使うほど光沢が出て、温かい艶(つや)が生まれるそうです。昔の人は錫器を「育てる」と言い、 長い間大切に使ってきました。

『一隅を照らす』という言葉は、平安時代に最澄(注2)が残した言葉の一節です。

一隅とは、今その人が置かれている場所を意味します。自分の今置かれている場所で精一杯努力し、周囲を明るくする。その行為がどんなものであるか、それが 役に立つか立たないかではなく、一人ひとりがそれぞれの場所で全力を尽くすことが、世の中全体を明るく良い方向に導くのだという考え方です。

国立国会図書館の入り口に掲示されている言葉「真理がわれらを自由 にするΗ ΑΛΗΘΕΙΑ ΕΛΕΥΘΕΡΩΣΕΙ ΥΜΑΣ」 この対句に「美がわれらを豊かにする」(←教養が無いのでラテン語わからず……orz)を入れたいな。

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聖書の言葉なのね。「国会図書館を初めとして、世界の多くの図書館では、『新約聖書』「ヨハネによる福音書」第8章第32節に由来する「真理はあなた方を自由にする」という句を原文のギリシャ語ではなく、ラテン語訳聖書の句 VERITAS VOS LIBERABIT として掲げていますが、私たちは宗教的意味を離れ、「真理」が無知から、偏見からわれわれ人間を解放し、自由にすることを願うという意味で原文の一部を変更(VOS→NOS)し、学問の場にふさわしい言葉として玄関壁面に掲げたものです。(専修大図書館HPより引用) http://ow.ly/1DUsx

きのうまでの大きいしごとがおわって、きょうは、こじんまりと名刺の両面箔押をやっているんだな。名刺も紙の厚みのあるのが多くなってきた気がするな。デザインを見て、どういう人が使うんだろうかと想像しながら作業するのも楽しいもんだな。名刺はその人の分身だから、扱いはお姫様で。
箔押はアルミを『蒸着』させたものを熱で『圧着』させるし、シールは剥がせるように『接着』ではなく、『粘着』なんだな。日本語はむずかしいけど、それ以上でもそれ以下でもないんだな。

本気でこの国を変えようとしてたよね?

だったらカッコ悪くてもいいじゃない、生き残る道を選びなさい。

どんなに後ろ指差されても我慢するの、悪徳政治家だからしょうがないじゃん。

その代わり、これからの生き方で見返してやるの。

言いたいやつには言わせておくの。

そしてあなたは、自分の思うとおりに生きるの。

あたしもこれから……そうするから……。

書くという行為によって、言葉はその人の身体から切り離され、特定の状況から切り離されてしまう。それだけに、誤解を生みやすい面を持っている。だからこそ、書くときには公共性の意識が大切になる。
 書くという行為に偶然などない。(中略)自分と正面から向き合って、人ははじめて文章を書ける。書くことによって、自分の意識の中を深く通過しているのだ。
僕ら現代人は、自分の感情や言葉すら、コンビニで買い物するように、サクサクと手に入れて、組み立ててしまえる。
日本のあちこちの土地や、企業は大丈夫だろうか。結局は、自分の言葉で話さないと、伝わらないことが多いはずだから。隣の県の成功を真似ても、自分の土地にとって何の足しにもならないように、ネットで手に入れた原稿や言葉をつないでも、自分らしい原稿は書けない。それはやってみて初めて驚く。自分で書いているはずの原稿が、気がつけば出来過ぎていて、よくある雑誌の原稿となんらかわらないような気がすることを。
感情を込めないで何かを短期間に完成させることに、日本中が慣れてしまっているように。
世の中の原稿には大きく2種類ある。ひとつは、情報を読んでリライトしたような原稿。もうひとつは、自分で確かめて、自分の言葉で書いた原稿だ。やってみて驚いたのは、実のところ、後者である「自分の言葉」での原稿がみんな、書けない。書くということには、ま、なんとなく出来なくはないが、あまりにも情報に早くたどり着ける(ネットや検索)ので、行った気持ちになってしまう現代病からくる。あげくには、行っていないのに、行ったように書くものも現れて、これは重病である。そもそも、行ってもいないのに、その解説を書くという変なシーンが現代社会には多すぎる。行っていないのだから、書かなくてもいいところだが、生活のスピードが早すぎて、そうでもしなければならない状態に陥ってしまっている。そう考えると、行っていないのに、行った気になって、納得し完結してしまっていることは、想像以上に私たちの中に多い。
教科書に出て来るようなことは、ややもすると、それをもって「見た」と認識してしまっている錯覚がある。人に関しても、もしかしたら「あの人知っている」と思い込んで、深く知ろうともしない場合があるかもしれない。
 書くという行為に偶然などない。(中略)自分と正面から向き合って、人ははじめて文章を書ける。書くことによって、自分の意識の中を深く通過しているのだ。
「書く」ことの基本的な機能は、体験の意味、経験の意味をあきらかにすることである。(中略)
 書き言葉はその定着力に特徴がある。体験は、そのままにして放っておけば、流れ去ってしまう。それを言葉にすることによって、後で読み返せる形にして、そのときの心の状態をつかみとることができるようにするのだ。
 話された言葉がその瞬間に消えていくのに対して、書かれた言葉は定着し、時間を超えて残る。それが書き言葉の威力である。文字の永遠性を利用して、不安定なものをその都度確定していき、経験の意味を残すところに、書くことの基本的機能があるのだ。

そもそも送り手が受け手の欲しいものを把握するなんてことは不可能だし、もしそれができると思ってるならそれはやっぱり傲慢だと思う。

「君たちこういうの好きでしょ」とか「これをレコメンドするおれのセンスすごいでしょ」とか、そんな上から目線の自意識は20世紀に置いてくればいい。送り手の側は、自分が持てるすべてを提示して、そこから先の判断は読者に委ねてしまえばいい。結果としてそこにあるのは玉石混淆の雑多な情報かもしれないけど、読者はその中から自分にとっての宝をつかみ取ってくれるはず。それがウェブという無限の荒野における情報流通の正しい姿だし、たぶんそれが読者を信じるということなんだと思う。

 書く側に、相手に伍する概括力や仮設力がなければ、<<専門家へのインタヴュー>>は御用聞きか垂れ流しになる傾向に拍車がかかります。その点をいつも肝に銘じてきました。
評論でもいいから、根本には学問的な手続きは必要なのであって、学問的に間違いだと分かることは書かない、という方針を立てればいいのだと私は思っている。いちばんいけないのは、どこが学問的に慎重な部分で、どこが杜撰な部分なのか、書いている当人が分かっていないことだ。一般向けに書かれていて、学問を踏まえていながら、厳密なアカデミズムの世界では言えないようなことを、少しはみ出す形で言う、これが評論の基本的な姿だと思ってもらえればいい。
 次の4項目は井上ひさしさんが言っておられることです。おもしろい文章とは何か、ということの急所を突いています。
一、一見くだらないことは真面目に書く。
一、難しいことは易しく書く。
一、易しいことは深く書く。
一、深いことをおもしろく書く。