師を見るな。師が見ているものを見よ。

・「できっこない」と思いすぎていたことでも、
 結果的にできちゃう場合があります。
 これくらい時間が経ったら、堂々と言えますが、
 今年の8月2日がくると、ぼくの禁煙が6年になります。
 ここまで来たら、「禁煙できた」と言っても、
 誰も笑わないでしょう。
  
 習慣を変えるということは、とてもむつかしいですが、
 絶対にできないわけじゃない。
 ひとつできると、ずいぶん自信にもなりますから、
 次のこともできるような気にもなれるわけです。

・まるで、じぶんに催眠術をかけるように言うのですが、
 「ほぼ日」の、この『今日のダーリン』にしたって、
 11年、毎日続けてこられたじゃないですか。
 そのことにしたって、はじめる前に
 「できるか?」と真剣に訊かれたら、
 きっと「できっこない」と真剣に答えたと思うんです。
 だけど、実際にはできているわけですからね、
 「できっこない」と思いすぎるのが、いちばんよくない。
 
・習慣というものは、敵でもあり、
 最大の味方でもあります。
 そこまでは、よくわかっているつもりなんですけどねー。

何かが「ない」悩みは、何かが「ある」悩みより難しいのではないかと私は思います。

 「ない」ことを正面切って語ろうとする人は少ない。「ない」ことは語りにくいし(単純に考えて、話のネタも少なそうだ)、「ない」ことには答えが「出ない」と思っているから。それはある意味正解です。後述しますが「ない」は存在の問いになってしまいやすいから、はっきりした答えが出ない。

   しかし考えてみてください。「ない」ということこそ、言葉でしか表せないのです。「ない」ことを考える人こそ、それを語る言葉を獲得してほしい。

   言い方を変えれば、マイノリティーこそ言葉を持たなければならなくて、マイノリティーこそ、生きていくのに言葉が必要です。

想いの強さというのは瞬間的な最大値ではなく継続性でこそ測れる訳で、まだホワイトバンドつけてる人がいたり、1年後にアイコンが緑のままの人がいたらとても立派だと思うけど、そんな人たぶんいないよね。
自分でもできそうなものにしか嫉妬ってできない。やってみて自分にできそうもないってわかると嫉妬がなくなる。

以前、『半島を出よ』の出版を記念して、村上龍がNHKに出ていた。

インタビューの終わりに、アナウンサーは「なるほど、この本は現代の日本人に対して鋭く警鐘をならす~、~」といった具合にまとめようとした。

ここで村上龍は、「うん、そういう風にまとめちゃうのが一番よくないと思うんですよね。まとめちゃうと、考えがそこでとまっちゃうじゃないですか。だから、まとめないでも、いいんじゃないですかね」と言葉を遮った。

アナウンサーは相槌をうち、コーナーを終えるため「なるほど、この本のテーマは一つではなく、読んだ皆さん自身に考えてもらうことが大事だということですね。本当に、今日は、どうも」と締めくくろうとした。

村上龍は苛立ち、また考えながら「だから、そういう風に、まとめて終わらなくても、いいじゃないですか」と言葉を差し挟み、そのままテレビの中ではテレビ的方法での解決を否定された、どうしようもなく曖昧な時間が残された。

このとき、テレビは、出ている人も、見る人も考えることを強制される、極めてテレビ的でないものになっていたように覚えている。

人間の脳には、わからないことに対してわかろうとする欲がありますが、わかってしまうと今度は飽きて、それを捨て、また新しい物を欲しがる。人間には、こういうことを際限なく繰り返していくようなところがある。わかると飽きるは紙一重なのです。
自分も他者である。不信からはじまる。
 ことばのすることというのは、結局のところ、名づけるということです。
 ことばをことばたらしめてきたものは、名づけることであり、また名のることでした。みずからことばのなかにすすみでる、ということです。
 生まれた子どもがこの世で最初にもらうのは、名。つまるところ、この世と人を、またこの世で人と人をむすぶものは、ことばです。
 そして、人がめいめい違った自分の名をもつように、ことばというのは、多様なものをたがいに認めあう方法です。ことばがあなどられるところに、人の、人としてのゆたかさはない。わたしはそう思っています。

精神的な背骨がある人は、自分が間違えることをだいたい許容できる。自分の判断基準からしてどうでも良いことならば、間違えたって直してより良いものにしていけば良いだけだから。自分の判断基準からして重要な間違いならば凹むかもしれないけどね。でも、一度背骨を作り上げている人ならば、背骨自体を強化したり、変更したりできるので案外タフだ。

(略)

価値の判断基準が自分の外にある人間は表現者になれない。その表現の仕方が研究だろうと、スピーチだろうと、絵画だろうと、価値の判断基準は常に自分の内部にあり、その基準に基づいて自分の考えや思いを外に問うのが表現だ。価値の判断基準が外にある人間は、自分の内部にあるものが外に問うだけのクオリティに達しているかを常に悩んでしまい表現を外に出せない。外に出せない限り、いかなる人間も表現者とはなりえないんだ。

表現者は、外の世界に自分の考えや思いを問うのがその存在意義だ。外に問うということは反論を食らうということなので、皮膚は破れ、肉は断たれる。でも、骨は守る。傷を癒し、身のこなしを鍛え、骨を強化し、場合によっては骨を入れ替え、再び世の中に自分の考えや思いを問う。考えや思いを外に問わなければ何も始まらないから、ただ、そうする。

だから、君がもし表現者になりたいのだとしたら、精神的な背骨を手に入れる必要がある。それはどんなものでも良い。私が君をどう思うかではなく、君が君をどう思うかそれが重要だ。君は私じゃないし、私は君じゃない。究極的には、私が君をどう思おうが君はそれに左右される筋合いはない。

徹底的に時間を追いこんでいく、これが他動的に起こるとストレスになるが、自動的に行う場合は一種の快感を伴う。
僕が学んだことは、「人の評価を気にする者は人並みになる」ということである。
志を高く持てと。自分は今ここにしかいない。残りのリーチをなんとしてもはい上ってみせるという覚悟が必要。覚悟というのは気合いではなく、毎日毎日階段を上っていくという作業でしかない。これが原理原則です。
宮崎駿さんがある講演会で言っていた、同じことを言わせてもらいます。「自分が手の届く範囲のことを一生懸命やることが一番の宝だ」というのは本当だと思います。