命しかない。けれど、命がある。これが希望である。この震災で多く尊い命を失ったがここにある命はそして経験は脈々と受け継がれ大河となるだろう。希望を絶やしてはいけない。
世間では各方面で自粛ムードが漂うが、私は元気な者は元気に過ごすことが今出来ることなのではないかと思う。野球、サッカー、大いにいいではないか。さくら祭りいいではないか。こんなときだからこそ、楽しさがなければいけない。楽しさは生きる喜びであり、希望に繋がる、と快楽主義者の私は思うのである。生きていることを実感し、共に同じひとときを分かち合うことが出来る喜びを味わおうではないかと思う。
下を向いているばかりでは何も始まらない。
先走って口からもらしてしまいます。
<これまで以上に、よくなるよ、日本。>
ああ、言っちゃった。
軽率だと言われるかもしれないけれど、
そうしなきゃ、残った人間の価値がない、と思うんです。
反省も悲しみも、懺悔の気持ちもこめて。
これまで以上に、よくなるよ、日本。
そんな気がしませんか?
何度もくりかえし言ってきました。
そういうふうにしている人が、たくさん見つかります。
とても心強いです。
ずいぶんきつい場所にいながら、
あるかぎりの笑顔を見せてくれる人もいます。
ぼくらのほうが、ありがとうと言いたい気持ちです。
横尾 (略)デザインは未来でも過去でもなく、「いま」じゃないですか。常に「いま」というぎりぎりのところに立っている。塀の上を歩いているような、右が過去で左が未来、みたいなね。そういう非常に危なっかしい立場にあると思うんですよね。
永井 「いま」というのを設定するには過去の積み重ねがあって「いま」の時間があるわけですよね。それが未来に移って行く、通過点の一瞬が「いま」だから。だから過去っていうのをもう少しね、過去からの歩みみたいなものが、しっかり身についていないと、的確な「いま」は表現できない。「いま」だけを見ようとすると、つい「いま」の状況に吸い寄せられてしまった希薄なものになりがちなので、過去からの積み重ねのしっかりした芯が弱くなってきているというのが問題なんですよね。
「見る」は、いかにも主体的な行為で、
「見られる」対象にはたらきかけるという感じです。
それにくらべると、「聞く」のほうは、
「ちゃんと聞け」なんて具合で、
主人公は相手の側で、
「聞く」ほうの人はそれに対して受動的にいるだけ。
一見、なんにもしてないようにも見えます。
耳はまばたきもしないしね、
よく聞いているからといって輝いたりもしない。
だから、どうしても「聞く」って
たいしたことないと思われがちなんだよなぁ。
だけどね、「聞く」っていうのは、
もう、ほんとにすごいことなんだ。
しかも、誰でもできる。
企業とかに勤めはじめたばかりの新人だったら、
とにかく人の言うことをよく「聞く」だけで、
実にいい仕事をしていることになるんだよ。
「言う」人は、聞かれたいから言ってるんだからね。
ちゃんと聞いているかそうでないか、
見えるような証拠もないだけに、
よく「聞く」か、いいかげんに「聞く」かは、
自己申告、自己判断なんだよ。
マナーに近いものなのかもしれない。
だけど、よく「聞く」人と、
いいかげんに「聞く」人の差は、
あきれるほど、どんどんと開いていくものなんだ。
人っていうのは、「聞く」人に向かって話すからね。
こいつは「聞く」な、と思えば、
その人のために、どんなことでも話すようになる。
そういうものなんだ。
ことばそのものを「聞く」だけじゃなく、
ことばの奥にある「気持ち」だって、
「聞く」ことができるようになる、だんだんとね。
やがては、直接にことばの素になるようなことまで、
「聞く」ことができたりもするんだ。
たぶん、あの果物のりんごにも聞けるし、
魚の言いたいことも聞ける、石ころでも聞ける。
目に見えないことのほうが、見えることよりも
たっぷりと豊かなのかもしれないと、
「聞く」ことをくり返しているうちに、
わかるようになるかもしれない。
聞くことは敬いだ。
聞かれるだけで、相手はこころ開いていく。
聞いているものがいるだけで、相手はうれしいものだ。
それは、ずいぶん大きな仕事だと思わないか。
—-
つまり、見かけ上の情報の飽和が、情報の相対的価値を間違いなく崩した。玉石混淆の蜘蛛の巣に生活は搦みとられた。だけどこの情報の暴落が、対面でリアルな、ナマの価値を底上げしてる。どれだけ貧乏でも貧困でも、無条件に若者でごったがえす居酒屋は、要は会話というナマ・セッションを楽しむ場所。
—-
週末のメガロポリスとか休日のキャンプとかここぞというライブに行くと、あまりの人の多さに引いてしまう。中には、引きこもってナマじゃないものにリアリティを感じる人もいよう。でもそういう領域ですら、これだけ出会い出会いってみんな念仏のごとく唱えるのは、やっぱりカラダが渇望してるからか。
—-
そういう「なまば」はどんどん「自前もの」が増えてくと感じております。だって馬鹿らしいもん。ありきたりな居酒屋でやるよか、少し負荷かけて一緒に酒も料理も作っちゃって、自分らで音鳴らす方がより「ナマ」だし。すなわち、Nama de Do It Yourselfの時代がもう進行してる!
—-
15-20 人くらいが収容できる、場としての一体感が損なわれない落ち着くスペース。平日の夜なんかはどんどんとプログラムをやってきたいって話をしてる。例えば先の「働く」という動詞から、格差問題も、ダウンサイジング経済も、はたまた「人間力養成スキル」も(やらないけど)自在に深められる。
—-
まずは、いろんなゲストを呼んで、シリアスにもポップにも実験的にいろいろやっていきたい。インタビュー/対談やら、映画上映やら、マイナー語学講座やら。まず何よりもメインは食らうこと。世界各国の友人に一品家庭料理作ってもらったりしつつ、ナマで身体を喜ばせる。
降ってきた雪を握りしめると、雪は掌のなかで溶けて水となって消えてしまう。掌に残るのは雪の冷たさだけだ。実体は何もないが、それゆえに際立つ雪の冷たさ、そして清らかさ。
あ
たかも掌に握りしめた雪のように――亡くなる直前の折口信夫(釈迢空1887-1953)は、日本の短歌、ひいては日本文化をそんなイメージに託した。内
容は何も残らないが、ある思いだけは残る。これほど的確で、しかも詩情あふれた日本文化イメージはないと絶賛し、この一節を筆者に教えてくれたのは、以前
本セミナーでもご発表いただいた花人の川瀬敏郎氏だった。自分の花もまたそうだ、内容なんて何もない、と。それ以来、折口信夫という名前がずっと頭にひっ
かかっていた。
折口のいう「握りしめた雪」とはいったい何なのだろうか。なくなってしまうこと、何もないことに注目したのか、あるいは何もないが思いは残るということに注目したのか。もちろん後者なのだろうけれども、そうだとして残る「思い」とは何なのか。そこに意味はあるのか。
い
ずれにせよ、これは相当手ごわい。言うまでもなく、少なくとも現代のわれわれにとって、ひとたび何かに取り組んだとしたら、内容はあって当然だし、意味の
あるものを求める。求められる。環境問題などにたずさわっていたらなおさらだ。なくなることではなく残すこと、壊すことではなく保全すること。ベクトルは
いつもそっちを向いている。
折口の発想はそれとはまるで反対を志向している。同じく死の直前にとりくまれた「自歌自註」では、自身の歌について
「内容空虚で、空気菓子をしやぶるやうな処」という言い方もしている。無内容、無意味、空虚、虚無…。そんな折口の本質に注目し、独自の近代日本論を展開
しているのが、文芸評論家の安藤礼二氏である。今回は安藤氏とともに折口の短歌論・日本文化論を検討し、いまわれわれが本当に残さなければならないものは
何のか考えていきたいと思います。
(環境思想セミナー企画担当:鞍田崇)
言葉が外に向かっていて、自分自身に向けられていないからです。
いま人類がかかえている問題は、すべて私たち自身の貪欲の結果だと私は考えています。
自分にひそむ小さな『悪』が地球大の悪に育ってしまうのを、他人に責任転嫁せずに制御していきたいと思っています。
世界を変えることはできませんが、自分を変えることはできるかもしれませんから。
自分は「こういう選手になろう」と思ってここまで来た選手じゃない。こうやるしか思いつかなかった。それが「ユーティリティープレーヤー」、「何
でも屋」で、それでもこの世界で食っていける。「レギュラーになる、エースになる」だけではない。巨人の藤田宗一投手は、中継ぎ登板だけで自分と同じ歳ま
でやっている。それで飯が食える、それがプロ野球。「俺が一番うまい」と思って入団して、一番得意だった事がうまくいかない。それもプロ野球。その時にあ
きらめるのではなく、自分の話を思い出してほしい。投げ出す前に、自分自身を知って可能性を探るのも必要ではないか。
時々、すごい才能がある人っぽいんだけど、惜しいなと思う人もいます。内側に何か憤怒のようなものが溜まってる。で、自分にコンプレックスがあり、 すごく警戒心が強い。且つ洞察力もある。
そこまで揃っていて、さあ後は爆発ですよという所で、人を攻撃する事にエネルギーが向かっている人がいます。そこまで行って、なんで他人なんだよ と思いますが、しかし、そう思ってしまっている人はもうそうでしかありません。溢れたエネルギーで嫉妬したり、他人を攻撃したりするならいいのですが、 そっちが目的になってしまっている。なまじエネルギーがすごいだけにどうしようもない存在になってしまっていたりします。
