そういえば、バートランド・ラッセルは本を書こうと決めたら旅にでたそうだ。二、三カ月して帰ってきた時には、本は頭の中でできあがっている。後はそれを書き下ろせばいいだけだったそうだ。思考を無意識の領域にまかせられるなんて凄い。
私にはラッセルの真似など到底できないが、それでも昔は短い原稿ならテーマを決めてぐっすり眠ると、朝にはできていたものだった。近年はそれができなくなって夢現つ状態で考えている。だからカードをベッドのそばに常時置いておく。忘れないうちに書き留めるのだ。
いったん書き留めてしまうと熟睡できる場合もあれば、堂々巡りしていた頭が自由になってさらに先に進む場合もある。今度のiPhoneにはボイスメモがついているので、書くかわりに吹き込むことにするととても楽なことに気がついた。
しかし、大きな違いがある。紙に書くと書いたものがそのまま目の前に形をとり、相互作用が起こりやすい。吹き込むと、思考が虚空に吸い込まれた状態になり、頭が空っぽになってしまう。フィードバックが起こらないのだ。
ことばで代弁しようとしても、なかなかむつかしい。
言えたような気になってすましているのは、
あんまり、よくない。
言えないことだらけだなぁ、と、
ちょっとすまない気持ちでいるくらいがいい。
小林秀雄が「批評とは他人をダシにして己の夢を語ること」といったと誰かが言ったようで、おいおいと思う。小林が書いたのは「批評とは竟に己の夢を懐疑的に語る事ではないのか」で、「懐疑的」という重要な修飾語がついている。これをすっ飛ばして「他人をダシに」に代えちゃうのは乱暴すぎる。
小林の言うことなんか、私だって半分もわからないが、要するに彼は「客観批評」というようなものを否定したんじゃないかと思う。「誰だって自分の目を通してしか世の中を見やしない」なんてことも、どこかに書いていた。
どんなに客観を装おうと、人は己の主観から逃れられない。批評家が対象について語ろうとすればするほど、そこに自分の内面が投影される。つまり批評において語られるのは、対象に名を借りた自分の夢ではないのか。その根源的な懐疑なしに対象など語れないという、小林の覚悟のようなものと私は読んだ。
恣意的な掲載可否は不公平でしょうか? これって検閲でしょうか?
そうかもしれませんが、無記名のコメントは記事の筆者に比較して、勝ち負けで考えれば圧倒的に優位です。なぜか。時間と文字数の制約下、「知っていること、考えていること」のすべてを出し尽くせない筆者に対して、自分が知っていて記事に書かれていない、説明されていないことを短く指摘すれば、投稿者は「物知りプロレス」の勝者になることができるからです。もちろんここでいう「勝者」には、特段の意味はありません。しかし、筆者の気持ちや記事にダメージを与えることは可能です。
隙なく総論を述べた上で各論に入るべき、とうっかり思ってしまいがちですが、数十万人の読者の方全員を完全に納得させるなどムリなこと。そこで筆者は、テーマに合わせてポイントを絞り、語りたいことに一直線に(人による? ええ、常に例外はあるのです)進み、最低限の足がかりを使って主張を述べることがほとんどです。むろん、巧拙や視点そのものが一般的なモノと違うこともよくあります。これまた、総じてのお話です。
書籍の場合ですら、網羅的にすべての要素を並べ尽くすことはできないはず。読み手もそれをおおむね了解していますよね。しかしウェブでは、なぜかしら「自分が知っていることが載っていない=この筆者は私と共通の理解に至っていない」という反応が出やすいように思うのです。
宮本さんは単身大阪ん出ることになったとき、父親からこんな10のことばをもらったそうです。以下はその要約です。
1. 「汽車へ乗ったら窓から外をよく見よ」。田畑に植えられているもの、村の家が大きいかどうか、瓦屋根か草ぶきか。そうした観察を通じてその土地の貧富がわかり、よく働く土地かどうかがわかる
2. 「新しくたずねていったところはかならず高いところへ上ってみよ」。高いところから俯瞰すれば全体が把握できる。目をひいたものがあれば、必ずそこに行ってみる。そうすればその土地で迷うことはなくなる。
3. 「金があったら、その土地の名物や料理はたべておくのがよい」。それでその土地の暮らしの高さがわかる。
4. 「時間のゆとりがあったら、できるだけ歩いてみることだ」。それでいろいろのことが教えられる。
5. 「金というものはもうけるのはそんなにむずかしくない。しかし使うのはむずかしい」。
6. 「30歳まではおまえを勘当したつもりでいる。しかし30過ぎたら親のあることを思い出せ」。
7. 「病気になったり、自分で解決のつかないようなことがあったら、郷里へ戻ってこい」。
8. 「これから先は子が親に孝行する時代ではない。親が子に孝行する時代だ。そうしないと世の中はよくならぬ」。
9. 「自分でよいと思ったことはやってみよ」。それで失敗しても親は責めない。
10. 「人の見のこしたものを見るようにせよ」。そこにこそ大事なものがあるはず。あせることはなく、自分の選んだ道をしっかり歩くことが大事。
レイモンド・チャンドラーが言っていた小説を書くコツを紹介しておりました。
まずデスクをきちんと定めなさい。
きちんと整頓しておく必要はないけれど、
いつでも仕事ができるという態勢にはキープしておかなくてはならない。
そして毎日ある時間をそのデスクに座って過ごすわけである。
それでその時間にすらすらと文章が書けたなら、何の問題もない。
たとえ1行も書けないにしても、とにかくそのデスクの前に座りなさい。
その間ペンを持ってなんとか文章を書こうと努力したりする必要はない。
何もせずにただぼおっとしていればいいのである。
そのかわり他のことをしてはいけない。
本を読んだり、雑誌をめくったり、音楽を聴いたり、…したりしてはいけない。
書きたくなったら書けるという態勢でひたすらじっとしていなくてはならない。
誤解している人が多いようだが、けなすのは簡単で、ほめるのはむずかしい。
けなすとき、私たちはいくら主観的な論拠から自説を展開しても少しも構わない。もとから相手を説得する気なんかないからだ。批判された相手が「オレはそんなこと言ってないぞ、どこに眼をつけているんだ」と怒り狂っても、もともと「相手を怒り狂わせたい」から書いているわけであるから、すでに初期の目的は十分に果たしているのである。
悪口を言うときには対象への適切な理解は不要である。
しかし、ほめるときには対象への適切な理解(と少なくとも書き手自身に承認されること)が必要である。
だから、私は(よく理解できないけれど)理解したいと思うものについては、「とにかく、ほめる」というスタンスを自らに課している。経験的には、「よく分からなくても、ほめる」ことによって「よく分からない」対象への理解は確実に深まるからである。
ものをものとしてほうり出す、そのナマナマしさにある。
変に、心を打とうとして感情の表現に傾くと、
その強さがなくなってしまう。
日本のあちこちの土地や、企業は大丈夫だろうか。結局は、自分の言葉で話さないと、伝わらないことが多いはずだから。隣の県の成功を真似ても、自分の土地にとって何の足しにもならないように、ネットで手に入れた原稿や言葉をつないでも、自分らしい原稿は書けない。それはやってみて初めて驚く。自分で書いているはずの原稿が、気がつけば出来過ぎていて、よくある雑誌の原稿となんらかわらないような気がすることを。
感情を込めないで何かを短期間に完成させることに、日本中が慣れてしまっているように。
教科書に出て来るようなことは、ややもすると、それをもって「見た」と認識してしまっている錯覚がある。人に関しても、もしかしたら「あの人知っている」と思い込んで、深く知ろうともしない場合があるかもしれない。