「見る」は、いかにも主体的な行為で、
「見られる」対象にはたらきかけるという感じです。
それにくらべると、「聞く」のほうは、
「ちゃんと聞け」なんて具合で、
主人公は相手の側で、
「聞く」ほうの人はそれに対して受動的にいるだけ。
一見、なんにもしてないようにも見えます。
耳はまばたきもしないしね、
よく聞いているからといって輝いたりもしない。
だから、どうしても「聞く」って
たいしたことないと思われがちなんだよなぁ。
だけどね、「聞く」っていうのは、
もう、ほんとにすごいことなんだ。
しかも、誰でもできる。
企業とかに勤めはじめたばかりの新人だったら、
とにかく人の言うことをよく「聞く」だけで、
実にいい仕事をしていることになるんだよ。
「言う」人は、聞かれたいから言ってるんだからね。
ちゃんと聞いているかそうでないか、
見えるような証拠もないだけに、
よく「聞く」か、いいかげんに「聞く」かは、
自己申告、自己判断なんだよ。
マナーに近いものなのかもしれない。
だけど、よく「聞く」人と、
いいかげんに「聞く」人の差は、
あきれるほど、どんどんと開いていくものなんだ。
人っていうのは、「聞く」人に向かって話すからね。
こいつは「聞く」な、と思えば、
その人のために、どんなことでも話すようになる。
そういうものなんだ。
ことばそのものを「聞く」だけじゃなく、
ことばの奥にある「気持ち」だって、
「聞く」ことができるようになる、だんだんとね。
やがては、直接にことばの素になるようなことまで、
「聞く」ことができたりもするんだ。
たぶん、あの果物のりんごにも聞けるし、
魚の言いたいことも聞ける、石ころでも聞ける。
目に見えないことのほうが、見えることよりも
たっぷりと豊かなのかもしれないと、
「聞く」ことをくり返しているうちに、
わかるようになるかもしれない。
聞くことは敬いだ。
聞かれるだけで、相手はこころ開いていく。
聞いているものがいるだけで、相手はうれしいものだ。
それは、ずいぶん大きな仕事だと思わないか。
ある夜、A氏が私に諭してくださいました。
A氏「平林くんも、モノ書きをやっているんだったら、『消しゴムで書く』って教わったことがあるだろう」
私「消しゴム? ですか?」
A氏「ほら、記事を書くときに、まず、『これはニュースだ』と原稿に書く。その後に、誰がどこで何をしたかを書く。書き終えて、ああ、本当にニュースになっているなと思えば、その記事は良し。『これはニュースだ』の部分を消しゴムで削ればいい。でも、その記事が『これはニュースだ』の続きにそぐわないようであればボツにする……」
私「あ、本で読んだことがあります。自分でも意識しています」
A氏「では、批判記事を書くとき、『これはニュースだ』のかわりに冒頭に何と書く?」
私「…………(沈黙)…………」
A氏「『ウチの業界のために言えば』と冒頭に書くんだよ。その後に、業界に警鐘を鳴らす記事や、企業の姿勢を批判する記事を書く。マシンの不出来を指摘してもいい。で、それが本当に業界のためだと思えば良し、そうなっていなければ自分でボツにすることだな」
これがA氏からたくさん頂戴した財産のうちのひとつです。
私自身も含め「書」をどう見れば…という困難を抱えている方に、今日の石川九楊さんのお話から少し。「書をどう見ればいいか。まず一文字でもいいから、起筆から終筆まで指でなぞってみること」「書を読むとは『(筆の)力と方向が刻一刻どう変化したか(=筆触)』をたどれるようになること」(続く)
「(『山』という文字があったとして)『mountain』という意味を読み取るのは『字を読む』こと。書かれたプロセスを読み取るのが『書を読む』ということ」というお話で「そうか」と納得。そして冒頭、宮沢賢治の詩『第三芸術』を引用しておっしゃった「これが書を書くということです」にも。
…というような初歩の初歩を含め、中国〜日本の書の歴史を俯瞰するには、石川九楊『中國書史』(京都大学学術出版会)、『日本書史』『近代書史』(2冊とも名古屋大学出版会)の三部作をお読みになることをお勧めします。
●ライター稼業で家を建てた男
『ドラゴンクエスト』の生みの親である堀井雄二がもともとフリーライターだったことは、ファンにはよく知られた話だろう。『ドラクエ』に出てくる短いながらも、機知に富んだセリフの数々は、やはり彼がライターだったからこそ生み出せたのだと評価する向きも多い。彼自身、セリフだけで物語を進めるという方法をテレビゲームの世界に導入したという自負は大いに持っており、それが誰よりも先にできたのは、《あの当時、ゲームを作ってるのはみんなコンピュータ方面からからやってきたひとたちで、文章に関しては素人だったから。でもぼくはプロのライターだったんで、その点で勝てるのは、当たり前だったのかもしれない》と『CONTINUE』Vol.1(太田出版、 2001年)のインタビューで語っている。
堀井がライターとなる発端は、早稲田大学在学中の漫画研究会時代にさかのぼる。当初はマンガ家志望だった彼だが、大学2年の時に、KK ベストセラーズの依頼で早大漫研の話を仲間とともに書いた本が6万部ほど売れたことから、文章を書くことの面白さを知る。その後も、漫研の仲間とは「冒険グループ」「うさぎ屋トライアングル」という名前で、それぞれ『いたずら魔』(KKベストセラーズ、1975年。同書は約20万部売れたという)と『いじわる特許許可局』(日本文芸社、1976年)という本を立て続けに出し、個人的にも文筆活動を始める。NET(現テレビ朝日)の『いたずらカメラだ!大成功』というテレビ番組でアイディアやギャグを考えたりする仕事をしていたのも、この時期のことだ。
しかしそこへ思わぬ事態が起こる。大学4年の終わりに『漫画サンデー』の原稿取りのバイトでバイクを運転中に転倒し、大けがを負ったのだ。この大事故で、彼は一年間休学、淡路島の実家で療養生活を送る。堀井はこの事故について後年、《おかげで、テレビの仕事はパー。あの事故がなかったら、今ごろは放送作家やってたんじゃないかなあ》と振り返っているが(『週刊朝日』 1990年2月23日号)、結局これが、彼がライター稼業を生業とする1つの契機となった。というのも1年後、堀井が大学5年に復学する頃には、仕送りも途絶え、自分で稼がねばならなかったからだ。
うまい具合に同級生たちは順当に大学を卒業し出版社などに就職しており、そのツテもあって、事故前よりも彼の書く場所はグンと増えた。この時期の仕事は実に多岐に渡り、例えば集英社の少女雑誌『週刊セブンティーン』で芸能記事や「男の子に好かれる方法」などといった企画記事を書いたり、白夜書房のポルノ映画誌『月刊zoom-up』では「近未来七色入門講座」という連載エッセイを書いたりもしている。また『月刊OUT』(みのり書房)では、1979年に「はしらマラソン」という1行ネタ欄を執筆したのを皮切りに、「官報」「OUTジャーナル」、そして同誌の最長寿連載となった「ゆう坊のでたとこまかせ」と読者投稿欄を継続して担当する。
こうして売れっ子ライターとなり、時には1日に3本の締め切りを抱え、月収も50万~100万円はあったという堀井は、このころ結婚し、 26歳にして都内に一戸建てを購入した。家を借りるのにさえ苦労しているフリーライターが多い中で、ライターとしての稼ぎだけで家を建ててしまった堀井雄二は本当に稀有な例だろう。
●マンガ原作への興味からPCに接近
さらに同じ時期には、堀井はマンガ原作にも興味を持ち、「小池一夫劇画村塾」に入塾している。ここで彼は《キャラクターを起てるコツを学んだ》という(『エコノミスト』2001年3月20日号)。実は『ドラゴンクエスト』というタイトルもまた、小池の「濁音は強烈に印象に残るから、ダ行のタイトルはヒットする」という教えにヒントを得て、まず「ドラゴン」とつけ、それに聞きなれない引っ掛かりのある言葉として「クエスト」を付け加えたものなのだ。一方で堀井は本田一景というペンネームで、『探偵桃語』(三山のぼる画、1986年)など実際にマンガ原作も手がけている。
こうしたマンガ原作への興味は、彼の目をパソコンへ向けさせることにもなる。ハーレクインロマンスの小説がコンピュータで書かれていると知り、パソコンでマンガ原作を書こうと思った堀井は、1981年に発売されたNECのPC-6001というパソコンを、担当していた雑誌の投稿欄への膨大な投稿を管理するという名目で購入した。しかし買って3日ほどで仕事には使えそうもないことがわかり、仕方なくゲームを始めたところ、すっかりハマッてしまう。
『少年ジャンプ』の編集者だった鳥嶋和彦と堀井が出会ったのは、ちょうどそんな時期のことだ。やがて同誌でもライターとして仕事を始めた堀井について、鳥嶋は《抜群に優秀》《原稿は完璧で、直しを入れる必要がまったくありませんでした。ただ、原稿が遅い(笑)。書くのに時間がかかるというか、なかなか仕事を始めないんですよ、遊んでいて》とのちに評している(『Big tomorrow』1999年11月号)。
それから間もなくして、ゲームソフトの企画制作に乗り出したばかりだったエニックスが、第一回ゲームホビープログラム・コンテスト(1982年)を開いた。『ジャンプ』でこのコンテストを取材し記事をまとめることになった堀井は、自らもパソコンでつくったばかりだったテニスゲーム『ラブマッチテニス』を応募し、これが見事に佳作入選を果たしてしまう。
ゲーム作家としてデビューしてからも堀井はライターを続け、当時『ジャンプ』の独擅場だったファミコン特集などを手がけた。だが、それもファミコンの専門誌の登場によって方向転換を余儀なくされる。そこで鳥嶋は、自前でゲームをつくり、その制作過程を随時誌面で紹介していくという企画を打ち出してきた。そのゲームこそ、『ドラクエ』だったというわけだが、その記事もまた堀井自身によって書かれることになる。ゲーム作家としての彼の仕事は、この時にいたるまでライター業と分かちがたく結びついていたのだ。
●堀井少年とゲーム作家・堀井とのあいだに
堀井は少年時代から、何かを仕掛けて人を驚かしては、その反応を見るのが大好きないたずらっ子だったという。その精神は、『ドラクエ』をはじめ彼のゲームにも随所に現れているが、実はライター時代よりその片鱗はあった。たとえば……
電話をかけた先が、あいにくと留守番電話だった場合、こんな手を使ってみよう。
「こちらは○×警察署の者です。お帰りになりましたら、ただちに署まで出頭してください」
(『いじわる特許許可局』)
鉄人28号をいじめる。正太郎からリモコンボックスをうばい、鉄人にシェーをやらせる。アホの鉄人は正義のためだとシェ――。
(『OUT』1979年8月号)
彼のライター時代とは、そんないたずらっ子だった堀井少年と、ゲーム作家・堀井雄二とをつなぐ、いわば鎖のようなものなのではないだろうか。
そういえば、バートランド・ラッセルは本を書こうと決めたら旅にでたそうだ。二、三カ月して帰ってきた時には、本は頭の中でできあがっている。後はそれを書き下ろせばいいだけだったそうだ。思考を無意識の領域にまかせられるなんて凄い。
私にはラッセルの真似など到底できないが、それでも昔は短い原稿ならテーマを決めてぐっすり眠ると、朝にはできていたものだった。近年はそれができなくなって夢現つ状態で考えている。だからカードをベッドのそばに常時置いておく。忘れないうちに書き留めるのだ。
いったん書き留めてしまうと熟睡できる場合もあれば、堂々巡りしていた頭が自由になってさらに先に進む場合もある。今度のiPhoneにはボイスメモがついているので、書くかわりに吹き込むことにするととても楽なことに気がついた。
しかし、大きな違いがある。紙に書くと書いたものがそのまま目の前に形をとり、相互作用が起こりやすい。吹き込むと、思考が虚空に吸い込まれた状態になり、頭が空っぽになってしまう。フィードバックが起こらないのだ。
ことばで代弁しようとしても、なかなかむつかしい。
言えたような気になってすましているのは、
あんまり、よくない。
言えないことだらけだなぁ、と、
ちょっとすまない気持ちでいるくらいがいい。
小林秀雄が「批評とは他人をダシにして己の夢を語ること」といったと誰かが言ったようで、おいおいと思う。小林が書いたのは「批評とは竟に己の夢を懐疑的に語る事ではないのか」で、「懐疑的」という重要な修飾語がついている。これをすっ飛ばして「他人をダシに」に代えちゃうのは乱暴すぎる。
小林の言うことなんか、私だって半分もわからないが、要するに彼は「客観批評」というようなものを否定したんじゃないかと思う。「誰だって自分の目を通してしか世の中を見やしない」なんてことも、どこかに書いていた。
どんなに客観を装おうと、人は己の主観から逃れられない。批評家が対象について語ろうとすればするほど、そこに自分の内面が投影される。つまり批評において語られるのは、対象に名を借りた自分の夢ではないのか。その根源的な懐疑なしに対象など語れないという、小林の覚悟のようなものと私は読んだ。
恣意的な掲載可否は不公平でしょうか? これって検閲でしょうか?
そうかもしれませんが、無記名のコメントは記事の筆者に比較して、勝ち負けで考えれば圧倒的に優位です。なぜか。時間と文字数の制約下、「知っていること、考えていること」のすべてを出し尽くせない筆者に対して、自分が知っていて記事に書かれていない、説明されていないことを短く指摘すれば、投稿者は「物知りプロレス」の勝者になることができるからです。もちろんここでいう「勝者」には、特段の意味はありません。しかし、筆者の気持ちや記事にダメージを与えることは可能です。
隙なく総論を述べた上で各論に入るべき、とうっかり思ってしまいがちですが、数十万人の読者の方全員を完全に納得させるなどムリなこと。そこで筆者は、テーマに合わせてポイントを絞り、語りたいことに一直線に(人による? ええ、常に例外はあるのです)進み、最低限の足がかりを使って主張を述べることがほとんどです。むろん、巧拙や視点そのものが一般的なモノと違うこともよくあります。これまた、総じてのお話です。
書籍の場合ですら、網羅的にすべての要素を並べ尽くすことはできないはず。読み手もそれをおおむね了解していますよね。しかしウェブでは、なぜかしら「自分が知っていることが載っていない=この筆者は私と共通の理解に至っていない」という反応が出やすいように思うのです。